ダーデンの死んだ牛の肉ブログ

シドニー生まれの日本男児

ロバストネス4.0

ごきげんよう、ダーデンです。

もともと民主社会のオープンネスは存在しなかった。見えない「外部」が絶えず存在したのである。これは、学問の世界の中だけで議論されていたことだった。だが今や多くの人が情報通信の発達やグローバリゼーションによって「外部」を実感することになった。見えなかった「外部」が、見える「外部」になった。今まで見えなかった「外部」を果たして取り込もうとするだろうか。そもそも国家という概念が巨大なフィクションの繭に覆われていることに学問の世界だけでなく人々は気づき始めているのだ。

もはや国家という大きなボリュームの中に公正という正義によって皆が幸せになったほうがいいということにほとんどの人が関心がない。すべての人が関心がないと言っても過言ではない。余計なことを考えるな、余計なことを言うな、そうすれば幸せになれるというのはもともと全体主義の社会である。だが自由で民主主義的な社会においても余計なことに関心を持たないほうが幸せに生きられるということになりつつある。そうなれば、民主主義的な制度下でパブリックマインドを持った政治を選ぶことも育てることも当然できない。簡単に言えば利害損得だけで政治を選び、選ばれた政治もパブリックマインドを持っているなどと、誰も想像できないのである。

ルソーの「社会契約論」の中に書かれたpitié(憐れみの情と訳されることが多い)を引けば、自分としての自分はこれでいいが、皆はどうだろうかというのが民主制の条件である。フランス革命よりずいぶん前のルソーの主張がリアルに感じるようになった。なぜなら、人々は自分としての自分とは別に守りたいものがあるはずだという前提が崩れ始めているからだ。ルソーにとってはもはや自明ではなかった。極少人数の自分の仲間の範囲しか考えない状態があり得るとルソーは既に想定していたのであろう。そうなれば建前とは別に民主主義というのは中身がパーフェクトにクソになる。

ルソーはこのロジックで、ロックの代議制を批判した。システムが回っていたことが自明だったことが、今ここにきてフィクションだったと気づき始めたわけである。情報通信や移動の制限があった時代は、見ると都合の悪いもの、都合の良いものを見ないで済んだ。だが今は情報通信も発達し、移動も自由になり、それを背景にして資本移動の自由化、つまりグローバリゼーションが生じれば、嫌でも見えなかったものが見えるようになる。

見えない「外部」が可視化する。そこで民主主義社会の構成員は、可視化された「外部」の人たちもどんどん包摂して、自分たちの富をシェアして、リソースを分け与えようとするだろうか。今まで見えなかった「外部」は、オートマティカリーに排除されていた。だが「外部」が可視化して、オートマティカリーに排除が効かなくなったのであれば、人為的に排除しなければならい。その可視化した「外部」を故意に排除して自分たちの富を守るのだろうか。この究極の問いが根本にあることをまず理解しなければいけない。

宗教者や信者でもない限り、人類皆兄弟、人類全体を包摂しようなんて思わない。「外部」を見えない、見ないことを前提にしてシステムが回り、豊かな社会、豊かな国民、平和な社会があるとフィクションの繭の中で微睡む。しかし、境界線の外側、つまり繭の外はどうなのか。そんなの知らねえよ!なのだ。

メディアは操作されている、メディアは嘘を垂れ流しているといった主張は、長い間マルクス主義を機軸としたサヨクの主張だった。権力はマスメディアのイニシアティブを簒奪し洗脳しようとしている、デマゴギーを植え付けようとしている、といった主張は今や左よりも右の主張になった。マスメディアはゴミだからネットを使って戦いを挑むというのが、オルト・ライトやネオ反動主義者の基本的なスタンスである。結局のところ右も左も動員したもん勝ちなのだ。ゲッベルス的に言えばウソも百回言えば真実になる戦略。真実か嘘かは比較的どうでもいい。

中国ガー、在日ガー、LGBTガー、男ガー、女ガー、童貞ガー、黒人ガーなどの言語的ラベルだけで吹き上がる、体験も経験もないようなサヨ豚、ウヨ豚、クソフェミ、クソリべのような、言葉の受動機械がどんどん増えている。これは日本だけでなく世界を席巻しつつある。これはフロイト学派が分析してきたことだが、人々は自力で埋め合わせられない不安に直面すると、それを埋め合わせようとして自分が操縦可能な埋め合わせを使用する。

フランクフルト学派では全体主義が跋扈したのは没落ゆえに、自分のダメさ加減に直面した人々が、それを埋め合わせるために強く大きなものにすがってユダヤ人を迫害した。今日、政治的、社会的な問題について吹き上がっている連中の多くのマインドが、公共的で皆の幸せを考えているなどと信じているバカはおるまい。言語の受動機械としての自分たちが、ホメオスタティックに持続するかどうかの観点からだけ情報を取捨選択し、言葉の受動機械として動くPeople(愚民)の存在は重大な問題である。

ロールズの「正義論」から引けば、リベラリズムの本質は、「あなたが私でも耐えられるのか。耐えられなければ制度を変えろ」ということである。「あなたが私でも」という入れ替え範囲が限られているのは今や自明である。境界線の外側まで考えて入れ替え可能性なんて考えない。昔は"みんな"と言えばオートマティカリーに国民国家の枠組みの中しか考えることしかできなかったし、外側を見るチャンスはなかった。繰り返すようだが今はその「外部」が見える。あなたが私でも耐えられるのかの入れ替え可能性の範囲が広がることはない。

リベラルの理念というものは実はおためごかしなのである。リベラルが言う入れ替え可能性の範囲なんて所詮自分たちにとって都合のいい範囲に限られる。おためごかしの建前=リベラルなのだ。人々がそれに気づき本音で生き始める。人間はそもそもそんな生き物なのである。進化生物学、社会生物学の立場から言えば、我々人間は150人以上の人間を大事な仲間だと思うことは不可能なのだ。民主制の始まりまで遡れば、絶えず見えない「外部」に、見ようとしない「外部」に支えられてきた。その「外部」が可視化した今、急速な多様性の波が押し寄せる。

多様性という理念に人々が価値を見出す状態を保つためにも速度は重要なのである。受け皿なしで多様性を急速に推し進めても多様性によって発生した悪影響が多様性のメリットを上回ってしまう。移民・難民問題もそうだが、特に移民に関しては、アメリカの例で説明すれば、理念を持った真の保守主義者も速度を重視する。彼らは移民そのものを絶対に否定しない。なぜなら移民国家であり彼らの祖先も移民だからだ。だが1985年の移民法以降の移民流入の速度が速すぎて、アメリカはそれを消化しきれていない。アメリカがアメリカでなくなってしまえば、そもそも移民を受け入れるという古き良きアメリカ的なものの前提が崩れてしまう。

政治の舞台では速度を緩めようという主張はとても弱い。「外部」が可視化した今、速度を制御する知恵を我々が持てば消化できるのだろうか。どのみち多様性の波に飲み込まれるのは自明である。そのときに我々の社会がまともであり続けられるかを決めるのは速度である。我々人間の個体、共同体の適応限界を超える速度であれば必ずバックラッシュは起こる。ここで問題なのは、果たして速度を緩めることに合意できるだろうか。先行者の利得がある資本主義社会では、皆が速度を緩めれば、我先に速度を上げて富を得るものが必ず現れる。国家間にしても同じだ。行動経済学的に言えば、感情の働きを前提として認知の歪みは変えることはできない。よって速度の緩めるためのマクロの合意は調達できないと考える。

レイ・カーツワイルが提唱したシンギュラリティ(特異点)について言えば、人間の個体・共同体の適応限界が超えれば、むしろ人間的な判断を人間に委ねるのは無理がある。AIこそがマクロな社会に関わる人間的な判断を担う社会が見える。人間的な判断が必要なときには、人間から降りてもらうという皮肉がリアルに出てくる。そうなれば人間なのか人間もどきなのか区別がつかない存在が増える。従来の人間、遺伝子組み換えした人間、電脳化した人間、人間化したコンピュータ、人間化したロボット、人間化した動物、モンスター化した人間。1981年に公開されたリドリー・スコット監督による「ブレードランナー」では、人間もどきのほうが人間らしいという結論だった。だが2017年に公開された「ブレードランナー2049」では、人間もどき(レプリカント)が俺っちは人間もどきだったのか~!と悔しがるクソ結末映画だった。ポスト・トゥルースからポスト・ヒューマンへ。

南の島の風はとても心地が良い。