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ダーデンの死んだ牛の肉ブログ

シドニー生まれの日本男児

映画「La La Land」は想像以上に「人生」だった。※ネタバレあり

ごきげんよう、ダーデンです。

週末、パートナーと一緒にイチャコラしながらデミアン・チャゼル監督の映画「La La Land」を鑑賞してきた。アカデミー賞最多14ノミネートした作品である。しかしまあ、第89回アカデミー賞授賞式は見るに堪えなかった。アカデミー賞は多かれ少なかれ政治色があるのが特徴だが、今回は最初から最後までトランプ大統領叩き一色だった。ノミネート作品を取り違うなど、とんでもないミスも勃発。アカデミーの権威は没落し、完全に偽善リベラルの政治遊びの場になってしまったんだなあと思った次第である。視聴率も過去最低を記録した。

「茶番デミー賞ここに極まれり」

さて、本題の映画「La La Land」についてだが、この題名の意味「La La Land」について辞書を引いてみよう。

〈米俗〉〔麻薬や酒に酔ったときに味わう〕陶酔境、恍惚、我を忘れた境地◆La-La Landとも表記される。

〈米俗〉ハリウッド、ロサンゼルス◆ロサンゼルス全体を指すこともあるが、特にハリウッドについて使われる場合が多い。<引用元>

決して、場末のストリップ劇場の名前などではない。あるかもしれないけど。つまり、ミアとセブが夢を追い求めてやってくる街ロサンジェルスの愛称 L.A.が楽園としてイメージさせる意味も含んでいる。この映画はジャズ・ミュージカルとして、劇中に突然歌って踊るわけだが、なぜ映画「La La Land」はミュージカルなのか。

言語と歌は元々違っていて、「悲しい」という言語を聴いても悲しくならない。だが、悲しい歌を聴けば感情が揺さぶられて悲しくなる。つまり、感情を巻き込んで、ある種現実を忘れさせてしまうのが歌である。「ミュージカル=忘却」なのだよ。

はっきり言ってしまえば、映画「La La Land」は、テリー・ギリアム監督の「未来世紀ブラジル」、デイヴィッド・リンチ監督の「マルホランド・ドライブ」を彷彿とさせる夢落ち映画なのだ!もしかしたら、あり得たかもしれない「人生」を後悔し振り返る。もし、そこに行っていたら...もしあの時ああしていれば...今の人生の幸せを増幅させたいがためのスパイスとして、慙愧の念が現実と夢を行き来する。

これは、ここ30年間の今風映画によく使われるプロットである。映画「La La Land」は、古い映画に対する様々なオマージュがちりばめられている。1964年のフランス映画「シェルブールの雨傘」や1950年のアメリカ映画「サンセット大通り」などのたくさんの映画に言及している。これも映画「La La Land」の重要なポイントである。

セブはジャズ・ミュージシャンを目指してロサンジェルスにやってくるが、世の中もうジャズ音楽なんて古い。誰もアートとしての音楽なんて望んでいない。誰にでも受け入れられるただの娯楽としての音楽しか探されない。そこで、セブは娯楽バンドに誘われて身を立てていくことになる。そこのプロセスで描かれるのは、今まで青臭いファッションに身を包んでいたセブが、だんだん黒っぽい大人なファッションに変わっていく。ある種社会に適応することで、一人前の大人になっていくイメージが描かれる。

これは表現者に向けたメッセージではなかろうか。つまり、映画を作る側である。「活動写真」というのは半分アートだった。それが今や大量生産のただの娯楽に変わってしまった。誰も頭を使わずに観ることができる映画が好まれる。そういった映画の歴史をセブの人生の遍歴に当てはめて表現している。映画を作ることが賞を受賞するためだけの目的になってしまった。観客の心に爪痕を残して考えさせる映画はもう受け入れられないのだ。しかし、映画「La La Land」には二重性がある。観客の多くにはただの娯楽として「ミュージカル=忘却」を提供する一方で、「活動写真」としての映画を取り戻そうというデミアン・チャゼル監督の思いが込められているのだ。

今の時代、忘却している場合でもないけれど、考えても解決できない問題が世界中に溢れている。人々はどうやって生きていったらよいのか、もがき苦しんで迷っている。映画「La La Land」はそれを肯定してくれているのかもしれない。あなた自身の「La La Land」を見つけてみてはいかがだろうか。人生。

 “Here's to the fools who dream. (夢見るすべての愚か者に乾杯)"