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ダーデンの死んだ牛の肉ブログ

シドニー生まれの日本男児

ジャパニーズ・ハロウィン

ごきげんよう、ダーデンです。

ハロウィンの歴史を紐解くと、元はケルト民族のお祭りでした。ケルト社会の原始宗教であるドルイド教を信仰するケルト人たちは、秋の収穫を祝い悪霊を追い払う11月1日のサウィン祭から新年が始まると考えられてきました。つまり、10月31日の夜から祭りは始まり、その夜は悪霊が訪ねてくると信じられていたため、ケルト人たちは各々に仮装し悪霊から身を守ったと言い伝えられています。ドルイド教は長い歴史の中でキリスト教によって駆逐されました。キリスト教文化圏におけるハロウィンについても賛否両論が繰り返されています。

さて、日本のハロウィン的なものはどうでしょうか。毎年ハロウィンになると、なぜか渋谷のスクランブル交差点に仮装をした人々が大挙して押し寄せ、安酒片手に騒ぐ日本独自のハロウィン。良い悪いは別にして、もはや宗教的な意味合いは見当たりません。日本各地の繁華街でも渋谷ほどではないにしても、同じような現象が起こっているという報道も目にしました。

今年は、ハロウィン当日の10月31日が月曜日だったが、週末からすごい人で埋め尽くされました。渋谷のスクランブル交差点には警察官が数百人配置され通行を妨害しないように警備し、今回初となる「歩行者天国」が、渋谷のスクランブル交差点の周辺道路の一部で実施されました。渋谷のハロウィン的なものの参加者は年々増加しています。

それに加えて、着替えるためのブース、仮設トイレ、仮設ゴミ捨て場なども設置されました。毎回ゴミのポイ捨てが問題になりますが、今回は渋谷区のゴミ0作戦により翌朝にはキレイな街に戻っていました。なんだ、今回はみんなマナーを守っていたじゃいないかと思ったかもしれないが、こういったボランティア活動などによる影の支援があったわけです。実際にはゴミのポイ捨てはなくなっていません。

マナーを守れ!ゴミを捨てるな!と叫んだところで無駄なので、渋谷のハロウィン的なものの騒ぎをイベント化しちゃえばいいんじゃね?ということで、自治体がゴミやマナー対策をする動きが出てきたわけです。仮装して押し寄せる人々が、てめえのケツはてめえで拭ける人たちだったなら早朝のゴミ拾いも、交通妨害対策も、お着替えブースの設置等もしなくていいわけです。まあ、そんなうまくいきません。

日本には、伝統的な世界観として「ハレとケ」があります。これは民俗学者である柳田國男が提唱した言葉です。「晴れと褻」つまり、晴れ=非日常(祭事や儀礼などの神聖性と宗教性)、褻=日常(普段の生活や活動などの世俗性と日常性)を表しています。祭りは、クソ社会で見る一瞬間の夢です。酔って騒いで踊り狂う、思考力も感受性も鈍るトランス状態に陥るからこそ楽しいわけです。

三島由紀夫は、ワッショイ、ワッショイと陶酔して神輿を担ぐ若者を見て、はたして何を見ているのだろうという謎に惑わされました。ある日自ら神輿を担いだときに謎が解けたと、彼の著書「太陽と鉄」に書いてあります。それは、陶酔して神輿を担いだときに、身体の隅々まで浸食していた「観念」という名の不幸が一瞬間ではあるが消え去っていることを実感できたわけです。

意味がなくても祭りがあればいい。日本文化としてのハロウィン的なものをイベント化して管理できるのならば、彼らのガス抜きの場として機能するのもいいと思うのです。社会がどんどんクソ社会化していけば、もうそこには実りはない。一瞬間の夢ぐらい見させてやってもいいではないか。だが、そのハロウィン的なものが新しいコミュニティとして機能するようになるかは疑問です。

インドやスリランカの人たちは、日本は仏教国だと教わっているため、誤解を生むことがあります。そもそも仏教国の人々は、キリスト教の祭儀を行ったりしません。仏教徒がクリスマスを祝うことはありえません。日本では、クリスマスやハロウィンなど、信仰心がともかく、カルチャーとしてキリスト教的なものが普通に受け入れられています。これは、日本人が古来より、八百万の神(万物に神が宿る)を信じている民間信仰が大きく影響していると考えられているからです。

日本のハロウィン的なもので仮装する人々は、だいたいアニメ、ゲーム、漫画、映画のキャラクターが多いですよね。日本が誇るキャラクター文化の本質は、物事に何か関わるときに自分自身が直接的に関わるのではなくて、代理人格のようなものに自分の一部を同化させてコミットするということにあります。例えばキャラクターの一部になってコミュニティにコミットするのも、ガンダムエヴァンゲリオンなどの巨大ロボットに乗り込んで敵と戦うのも全部同じです。

人々は近代化と共に自立的相互扶助が与える地域や家族のつながりを断ってきました。地域コミュニティを受け皿とした日本古来の祭りによる快楽や濃密さを知らぬまま、或いはそれを忘れて、“祭り的なもの”に依拠する。生活世界が空洞化すれば、役割とマニュアルに支配されたシステム化が進みます。これを便利になったね!というのです。便利になることはいいことです。だが、善意と自発性がメインの生活世界が役割とマニュアルに支配されたシステム化された世界になれば、誰が「我々」なのか分からなくなるほど空洞化が進みます。

社会がグローバル化によって過剰流動性が高くなれば、人々もまともに育つ可能性も減ります。それに加えて、まともに育てる教育コストが上がります。つまり、人々がどんどん入れ替え可能な動物に近づきます。まともでなくても社会が回るようにする監視化や冷暖房の温度、イスの硬さ、照明の明暗、BGMの音量などの制御による快不快に反応する動物として制御されるようになります。

今そこにある現実を見ないように、一瞬間の夢を延々と見続けている間に、ピノッキオはロバになって言葉も発せず売り飛ばされてしまう。誰が「我々」か分からない入れ替え可能な記号となりながら、とっくに死んでいる20世紀の経済モデルから脱却できないゾンビのような国、日本。ゾンビの仮装をしているのならまだいいが、ほんとうに生きながら死んでいるゾンビなってしまったのなら、噛みつかれないように逃げるべきだと思う、そんなハロウィンの夜でした。