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ダーデンの死んだ牛の肉ブログ

シドニー生まれの日本男児

LGBTファシズムをやっつけろ

ごきげんよう、ダーデンです。

多様性(Diversty)とはなんでしょうか。それは、幅広く性質の異なるものが存在することです。肌の色も文化も性別も違うように多様性は普遍的なものです。もちろん、セクシャル・マイノリティも多様性に包摂されなければなりません。

LGBTは高収入で大企業に勤めてカムアウト済みで、パートナーシップも結んで、結婚式も挙げて、養子を迎えて、キラキラ・ライフを送ることなどが、あたかもLGBTの幸せな生き方だと捉えさせるイメージ作りが、多様性をエンジョイできるのは恵まれた奴らだけだと感情のフックに釣られて、さらなるマイノリティを当事者たちの中に生んでしまうのは皮肉な事態です。

セクシャル・マイノリティの市場性に目をつけ、大手広告代理店をはじめ、様々な企業が“LGBTビジネス”としてチャンスを見出すのは理解できますし、資本主義ですから、否定はしません。けれども、セクシャル・マイノリティを利権のために利用したり、政治運動に利用したり、間違った方向へ巻き込んでしまうのは見過ごせません。

セクシャル・マイノリティを分断して生き方を狭めるのは多様性とは真逆です。例えば、ゲイだからって、カムアウトせずにひっそりとそれなりに充実した普通の生活を送っているゲイもいます。LGBT解放運動によるセクシャル・マイノリティを「包摂せよ」「承認せよ」という規範的命令文によってその括りから外れて追い詰められるセクシャル・マイノリティがいるという「包摂/排他のパラドックス」への敏感さが必要です。

セクシャル・マイノリティを守ってやるのだ!差別をなくすのだ!認めてさせるのだ!と過敏になり過ぎるのはよくありません。なぜなら、セクシャル・マイノリティへの差別意識を強調しているように感じてしまうからです。「彼らを守らなくては」「彼らは守らなければならない」「彼らはこう生きるべきだ」という立場が、そもそも差別意識から発してるものだと思います。LGBT解放運動は、レインボー・プライドなどに代表される社会運動体が特徴的ですが、制度的惰性や実存的惰性があります。

レインボー・プライドは一種の祭りです。抑圧されるセクシャル・マイノリティとしての共同性と快楽の共同性を前提とした「美」をコアにする祭りです。ここで、逆説が生じます。LGBT解放運動はセクシャル・マイノリティの解放が目的です。しかし、運動が成功して解放されたあかつきにはLGBTという括りはなくなり、多様な性のその中の一つとなります。当然、セクシャル・マイノリティとしての共通前提としてありえた「美」は失われ、祭りはできなくなります。「美」が消えるということに耐えうるのか、という問題です。

社会運動体が続くことによる権益や利権、社会運動体の濃密な時間や空間を継続したいがために、社会運動を存続しようと無理にでも新しいネタを見つけるようになります。良い悪いは別としてそのことを自覚する必要があります。自覚するのはとても重要で、そうしなければ数少ない居場所を確保したり、社会運動しているオレかっけえ、ワタシかわいいの自意識を確保するために機関決定に従うだけの思考停止な社会運動に突入してしまう危険性があるからです。

サンフランシスコのカストロ通りに行ったことはあるだろうか。このカストロ通りは多くのセクシャル・マイノリティが住むゲイの聖地としてとても有名なゲイ・タウンです。映画「ミルク」に登場する実在したゲイ・アクティビストのハーヴェイ・ミルクが営んでいたカメラ店「カストロカメラ」もあります。彼は、射殺によって死を遂げるまで、市のセクシャル・マイノリティの権利獲得に奔走しました。アメリカのセクシャル・マイノリティの間では英雄として語り継がれています。

たしかに、異性愛者と対立してセクシャル・マイノリティの権利を勝ち取った街です。だがそれには裏事情も隠されているのです。それは、セクシャル・マイノリティの中では平等を意味しなかったことです。敢えて言わせてもらえば、白人のセクシャル・マイノリティにとっての平等だったのです。他の人々は、彼らが頂点を築くヒエラルキーの下層に配置されました。ヒエラルキーの下層はアジア系がほとんどを占め、女性は男性の下に配置されました。つまり、アジア系のレズビアンが最下層です。

ヒエラルキーの頂点に立つ白人のゲイは、移民としてやってきたアジア系のレズビアンがどんなに貧困に苦しもうが、街の通りでレズ嫌いの男に殴られようが、ともに闘う姿勢などありません。むしろ、彼らは自分たちの富の蓄積に忙殺されている。さらに、ベトナムやタイのゲイに対しては権利などに無知な、ただのかわいい坊やでいてほしいと思っているのです。だが、彼らは自分たちが異性愛者から二等市民として扱われることにはブチギレするわけです。

セクシャル・マイノリティの問題は、すなわち文化の問題でもあるのです。日本人のセクシャル・マイノリティの問題は、必ず日本という社会を横目で捕捉しつつ、その国が生み出した新たな問題として認識されなければいけません。つまり、それは、アメリカでLGBTはすでに市民権を得ている、というような文脈で認識されてはならないことです。自国の文化を無視して認識される問題ではないのです。