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ダーデンの死んだ牛の肉ブログ

シドニー生まれの日本男児

ヘタレナショナリズムは落ちこぼれのオナニーである

ごきげんよう、ダーデンです。

日本人の「誇り」とはなにか。いや、誇りはもうないかもしれない。日章旗天皇陛下靖国、なんでもいいが、あるシンボルを掲げてそこに寄り添い、在日、中国、韓国を叩いて、俺は右翼だ!と言い張る、まったくなにも考えていないウヨ豚も増殖している。マルクス主義がなんたるかも理解せず、立憲主義も民主主義も平和主義も理解せず、俺は左翼だ!と言い張るサヨ豚も一緒です。

保守とはフランス革命に際して、エドマンド・バークが作り出した概念です。それは、人間は基本的に賢くないし、理性にも限界がある。社会というものを理性でコントロールできるわけがありません。抑制的で謙虚な立場が本来の保守です。内側から湧き上がる「内発性」に依拠することを重視します。世界的に「右」も「左」も劣化が進んでいます。個人が分断されて孤立すると、それを埋め合わせるために強いものに所属したがる。

左翼は、たとえば社会主義イデオロギーを振りかざして、その回答を知っていると豪語し、右翼も、たとえば民族主義ロマン主義に態度を固着させる。人間は不完全なので精神の偏向は避けられません。ただし、それが人間、社会の矛盾の深さを推し測れないことからくる正義の過剰としての横暴であり、勇気の過剰としての野蛮であるとしたら、見過ごすことはできません。

哲学者オルテガは、「左翼に属することは、右翼に属するのと同様、人が愚かにになるために選択しうる無限にある方法の一つである。つまり、両者は明らかに精神的半身不随の形態である。」と言いました。

都会に出て大学を卒業し、社畜になり、収入は安定したが、思い描いていた理想とかけ離れた現実に孤独を感じるとか居場所がないと感じる、「こんなはずじゃねえ感」も埋め合わせとして大いなるものを呼びたしたがる条件になります。大衆社会論によれば、都市化が進むにつれて不安や鬱屈を抱え、感情のフックに釣られやすい弱い状態となります。そうなると、排外主義や攻撃性をベースとした劣化した感情のフックが有効に機能します。大衆社会論は第二次世界大戦後に下火になりました。その理由は中間層が分厚くなったためです。しかし、現代はグローバル化流動性により、中間層が壊滅状態なってきています。

インターネットの登場も大きな影響を与えました。キャス・サンスティーン的に言えば、ネットは見たいものだけを見て、見たくないものは見ないことが可能なメディアです。そうすると、部族化(Tribe)が進みます。自分がコミュニケーションしたい仲間とだけ狭い世界に閉じこもり、クソなコミュニケーションで延々にグルグル回り続けます。朝から晩まで取り憑かれたように、在日ガー、中国ガー、韓国ガー、自民ガー、民進ガー、原発ガー、沖縄ガー、レイシストガー、LGBTガーなどと噴き上がっている浅ましい残念な人たちがたくさんいます。ほんと、お疲れ様です。

分断され孤立した連中は、彼らがこの世を捨てない限り、自分の周りに承認を供給する共同性がないので、ネットのクラスタのような疑似共同性や、崇高な精神共同体としての国家のような疑似共同性に身をゆだねて、孤独を埋め合わせるのです。そう、冷え切った夫婦の専業主婦にもウヨ豚サヨ豚が多い理由がお分かりだと思います。セックスしろよ。

グローバル化が進み人間も入れ替え可能な流動化した社会になると、うまく地位達成や承認を得られない不安や鬱屈を抱えた人間が、カルト宗教やカルト的なものに動員されて、そこで地位達成と承認を獲得しようとする営みにも陥りやすくなります。サリン事件を引き起こした高学歴な信者が多く入信したオウム真理教も、「こんなはずじゃねえ感」を生きるエリートだったと思います。自己啓発セミナーからカルト宗教へ80年代初頭から起こった動きです。

一人一人に承認が与えられ、各人が守るべき人、守るべき祖国をはっきり認識しているような社会は終わりを迎えているのではなかろうか。社会の近代化の過程で人々が、安心、安全、快適、便利を望む代わりに、人々は共同体から剥ぎ取られ、都市に集められ、流動する入れ替え可能な個人と化しました。その土壌をプラットフォームとして、大衆迎合的なポピュリズム全体主義の危険が無視できないレベルに高まっているのです。今まで安定化装置として機能してきた家族共同体や会社共同体というものが壊れてきています。別の安定化装置を開発しないまま、過酷な状況に剥き出しのまま投げ出されてしまった。

日本が“普通の国”になって国を守るのもいいが、もう既にこの日本には入れ替え可能なものしかないのなら、そんなものは守られても守られなくてもいいのではないか。三島由紀夫が抱いた日本に対する懸念は、入れ替え不可能なものは天皇陛下である、いや天皇陛下しかないかもしれないとした上で、この日本にはまだ入れ替え不可能なものがあると能天気に構えていようが、いずれ世界の流れに飲み込まれるのは自明であるということだった。入れ替え不可能なものが消えて、日本というものが無色透明になってしまったのなら、敢えてそれを忘れて、永久に入れ替え可能な記号と戯れてもいいと思っています。

現政権の日本再生のビジョンも現政権を批判する護憲派も沖縄の基地問題の論点も、じつに的外れである。今ここの現実からかけ離れた建前であるように見えてならないのです。「右」も「左」も、その対立の前提そのものをめちゃくちゃにするような変化が日本だけでなく世界で起こり始めている。ウヨ豚もサヨ豚も一人でオナニーしながら崖から転げ落ちるのは大いにけっこうである。だが、今我々に必要なのは、まずその現実を認識する勇気なのかもしれません。