ダーデンの死んだ牛の肉ブログ

シドニー生まれの日本男児

ジャパニーズ・ハロウィン

ごきげんよう、ダーデンです。

ハロウィンの歴史を紐解くと、元はケルト民族のお祭りでした。ケルト社会の原始宗教であるドルイド教を信仰するケルト人たちは、秋の収穫を祝い悪霊を追い払う11月1日のサウィン祭から新年が始まると考えられてきました。つまり、10月31日の夜から祭りは始まり、その夜は悪霊が訪ねてくると信じられていたため、ケルト人たちは各々に仮装し悪霊から身を守ったと言い伝えられています。ドルイド教は長い歴史の中でキリスト教によって駆逐されました。キリスト教文化圏におけるハロウィンについても賛否両論が繰り返されています。

さて、日本のハロウィン的なものはどうでしょうか。毎年ハロウィンになると、なぜか渋谷のスクランブル交差点に仮装をした人々が大挙して押し寄せ、安酒片手に騒ぐ日本独自のハロウィン。良い悪いは別にして、もはや宗教的な意味合いは見当たりません。日本各地の繁華街でも渋谷ほどではないにしても、同じような現象が起こっているという報道も目にしました。

今年は、ハロウィン当日の10月31日が月曜日だったが、週末からすごい人で埋め尽くされました。渋谷のスクランブル交差点には警察官が数百人配置され通行を妨害しないように警備し、今回初となる「歩行者天国」が、渋谷のスクランブル交差点の周辺道路の一部で実施されました。渋谷のハロウィン的なものの参加者は年々増加しています。

それに加えて、着替えるためのブース、仮設トイレ、仮設ゴミ捨て場なども設置されました。毎回ゴミのポイ捨てが問題になりますが、今回は渋谷区のゴミ0作戦により翌朝にはキレイな街に戻っていました。なんだ、今回はみんなマナーを守っていたじゃいないかと思ったかもしれないが、こういったボランティア活動などによる影の支援があったわけです。実際にはゴミのポイ捨てはなくなっていません。

マナーを守れ!ゴミを捨てるな!と叫んだところで無駄なので、渋谷のハロウィン的なものの騒ぎをイベント化しちゃえばいいんじゃね?ということで、自治体がゴミやマナー対策をする動きが出てきたわけです。仮装して押し寄せる人々が、てめえのケツはてめえで拭ける人たちだったなら早朝のゴミ拾いも、交通妨害対策も、お着替えブースの設置等もしなくていいわけです。まあ、そんなうまくいきません。

日本には、伝統的な世界観として「ハレとケ」があります。これは民俗学者である柳田國男が提唱した言葉です。「晴れと褻」つまり、晴れ=非日常(祭事や儀礼などの神聖性と宗教性)、褻=日常(普段の生活や活動などの世俗性と日常性)を表しています。祭りは、クソ社会で見る一瞬間の夢です。酔って騒いで踊り狂う、思考力も感受性も鈍るトランス状態に陥るからこそ楽しいわけです。

三島由紀夫は、ワッショイ、ワッショイと陶酔して神輿を担ぐ若者を見て、はたして何を見ているのだろうという謎に惑わされました。ある日自ら神輿を担いだときに謎が解けたと、彼の著書「太陽と鉄」に書いてあります。それは、陶酔して神輿を担いだときに、身体の隅々まで浸食していた「観念」という名の不幸が一瞬間ではあるが消え去っていることを実感できたわけです。

意味がなくても祭りがあればいい。日本文化としてのハロウィン的なものをイベント化して管理できるのならば、彼らのガス抜きの場として機能するのもいいと思うのです。社会がどんどんクソ社会化していけば、もうそこには実りはない。一瞬間の夢ぐらい見させてやってもいいではないか。だが、そのハロウィン的なものが新しいコミュニティとして機能するようになるかは疑問です。

インドやスリランカの人たちは、日本は仏教国だと教わっているため、誤解を生むことがあります。そもそも仏教国の人々は、キリスト教の祭儀を行ったりしません。仏教徒がクリスマスを祝うことはありえません。日本では、クリスマスやハロウィンなど、信仰心がともかく、カルチャーとしてキリスト教的なものが普通に受け入れられています。これは、日本人が古来より、八百万の神(万物に神が宿る)を信じている民間信仰が大きく影響していると考えられているからです。

日本のハロウィン的なもので仮装する人々は、だいたいアニメ、ゲーム、漫画、映画のキャラクターが多いですよね。日本が誇るキャラクター文化の本質は、物事に何か関わるときに自分自身が直接的に関わるのではなくて、代理人格のようなものに自分の一部を同化させてコミットするということにあります。例えばキャラクターの一部になってコミュニティにコミットするのも、ガンダムエヴァンゲリオンなどの巨大ロボットに乗り込んで敵と戦うのも全部同じです。

人々は近代化と共に自立的相互扶助が与える地域や家族のつながりを断ってきました。地域コミュニティを受け皿とした日本古来の祭りによる快楽や濃密さを知らぬまま、或いはそれを忘れて、“祭り的なもの”に依拠する。生活世界が空洞化すれば、役割とマニュアルに支配されたシステム化が進みます。これを便利になったね!というのです。便利になることはいいことです。だが、善意と自発性がメインの生活世界が役割とマニュアルに支配されたシステム化された世界になれば、誰が「我々」なのか分からなくなるほど空洞化が進みます。

社会がグローバル化によって過剰流動性が高くなれば、人々もまともに育つ可能性も減ります。それに加えて、まともに育てる教育コストが上がります。つまり、人々がどんどん入れ替え可能な動物に近づきます。まともでなくても社会が回るようにする監視化や冷暖房の温度、イスの硬さ、照明の明暗、BGMの音量などの制御による快不快に反応する動物として制御されるようになります。

今そこにある現実を見ないように、一瞬間の夢を延々と見続けている間に、ピノッキオはロバになって言葉も発せず売り飛ばされてしまう。誰が「我々」か分からない入れ替え可能な記号となりながら、とっくに死んでいる20世紀の経済モデルから脱却できないゾンビのような国、日本。ゾンビの仮装をしているのならまだいいが、ほんとうに生きながら死んでいるゾンビなってしまったのなら、噛みつかれないように逃げるべきだと思う、そんなハロウィンの夜でした。

LGBTファシズムをやっつけろ

ごきげんよう、ダーデンです。

多様性(Diversty)とはなんでしょうか。それは、幅広く性質の異なるものが存在することです。肌の色も文化も性別も違うように多様性は普遍的なものです。もちろん、セクシャル・マイノリティも多様性に包摂されなければなりません。

LGBTは高収入で大企業に勤めてカムアウト済みで、パートナーシップも結んで、結婚式も挙げて、養子を迎えて、キラキラ・ライフを送ることなどが、あたかもLGBTの幸せな生き方だと捉えさせるイメージ作りが、多様性をエンジョイできるのは恵まれた奴らだけだと感情のフックに釣られて、さらなるマイノリティを当事者たちの中に生んでしまうのは皮肉な事態です。

セクシャル・マイノリティの市場性に目をつけ、大手広告代理店をはじめ、様々な企業が“LGBTビジネス”としてチャンスを見出すのは理解できますし、資本主義ですから、否定はしません。けれども、セクシャル・マイノリティを利権のために利用したり、政治運動に利用したり、間違った方向へ巻き込んでしまうのは見過ごせません。

セクシャル・マイノリティを分断して生き方を狭めるのは多様性とは真逆です。例えば、ゲイだからって、カムアウトせずにひっそりとそれなりに充実した普通の生活を送っているゲイもいます。LGBT解放運動によるセクシャル・マイノリティを「包摂せよ」「承認せよ」という規範的命令文によってその括りから外れて追い詰められるセクシャル・マイノリティがいるという「包摂/排他のパラドックス」への敏感さが必要です。

セクシャル・マイノリティを守ってやるのだ!差別をなくすのだ!認めてさせるのだ!と過敏になり過ぎるのはよくありません。なぜなら、セクシャル・マイノリティへの差別意識を強調しているように感じてしまうからです。「彼らを守らなくては」「彼らは守らなければならない」「彼らはこう生きるべきだ」という立場が、そもそも差別意識から発してるものだと思います。LGBT解放運動は、レインボー・プライドなどに代表される社会運動体が特徴的ですが、制度的惰性や実存的惰性があります。

レインボー・プライドは一種の祭りです。抑圧されるセクシャル・マイノリティとしての共同性と快楽の共同性を前提とした「美」をコアにする祭りです。ここで、逆説が生じます。LGBT解放運動はセクシャル・マイノリティの解放が目的です。しかし、運動が成功して解放されたあかつきにはLGBTという括りはなくなり、多様な性のその中の一つとなります。当然、セクシャル・マイノリティとしての共通前提としてありえた「美」は失われ、祭りはできなくなります。「美」が消えるということに耐えうるのか、という問題です。

社会運動体が続くことによる権益や利権、社会運動体の濃密な時間や空間を継続したいがために、社会運動を存続しようと無理にでも新しいネタを見つけるようになります。良い悪いは別としてそのことを自覚する必要があります。自覚するのはとても重要で、そうしなければ数少ない居場所を確保したり、社会運動しているオレかっけえ、ワタシかわいいの自意識を確保するために機関決定に従うだけの思考停止な社会運動に突入してしまう危険性があるからです。

サンフランシスコのカストロ通りに行ったことはあるだろうか。このカストロ通りは多くのセクシャル・マイノリティが住むゲイの聖地としてとても有名なゲイ・タウンです。映画「ミルク」に登場する実在したゲイ・アクティビストのハーヴェイ・ミルクが営んでいたカメラ店「カストロカメラ」もあります。彼は、射殺によって死を遂げるまで、市のセクシャル・マイノリティの権利獲得に奔走しました。アメリカのセクシャル・マイノリティの間では英雄として語り継がれています。

たしかに、異性愛者と対立してセクシャル・マイノリティの権利を勝ち取った街です。だがそれには裏事情も隠されているのです。それは、セクシャル・マイノリティの中では平等を意味しなかったことです。敢えて言わせてもらえば、白人のセクシャル・マイノリティにとっての平等だったのです。他の人々は、彼らが頂点を築くヒエラルキーの下層に配置されました。ヒエラルキーの下層はアジア系がほとんどを占め、女性は男性の下に配置されました。つまり、アジア系のレズビアンが最下層です。

ヒエラルキーの頂点に立つ白人のゲイは、移民としてやってきたアジア系のレズビアンがどんなに貧困に苦しもうが、街の通りでレズ嫌いの男に殴られようが、ともに闘う姿勢などありません。むしろ、彼らは自分たちの富の蓄積に忙殺されている。さらに、ベトナムやタイのゲイに対しては権利などに無知な、ただのかわいい坊やでいてほしいと思っているのです。だが、彼らは自分たちが異性愛者から二等市民として扱われることにはブチギレするわけです。

セクシャル・マイノリティの問題は、すなわち文化の問題でもあるのです。日本人のセクシャル・マイノリティの問題は、必ず日本という社会を横目で捕捉しつつ、その国が生み出した新たな問題として認識されなければいけません。つまり、それは、アメリカでLGBTはすでに市民権を得ている、というような文脈で認識されてはならないことです。自国の文化を無視して認識される問題ではないのです。

 

ヘタレナショナリズムは落ちこぼれのオナニーである

ごきげんよう、ダーデンです。

日本人の「誇り」とはなにか。いや、誇りはもうないかもしれない。日章旗天皇陛下靖国、なんでもいいが、あるシンボルを掲げてそこに寄り添い、在日、中国、韓国を叩いて、俺は右翼だ!と言い張る、まったくなにも考えていないウヨ豚も増殖している。マルクス主義がなんたるかも理解せず、立憲主義も民主主義も平和主義も理解せず、俺は左翼だ!と言い張るサヨ豚も一緒です。

保守とはフランス革命に際して、エドマンド・バークが作り出した概念です。それは、人間は基本的に賢くないし、理性にも限界がある。社会というものを理性でコントロールできるわけがありません。抑制的で謙虚な立場が本来の保守です。内側から湧き上がる「内発性」に依拠することを重視します。世界的に「右」も「左」も劣化が進んでいます。個人が分断されて孤立すると、それを埋め合わせるために強いものに所属したがる。

左翼は、たとえば社会主義イデオロギーを振りかざして、その回答を知っていると豪語し、右翼も、たとえば民族主義ロマン主義に態度を固着させる。人間は不完全なので精神の偏向は避けられません。ただし、それが人間、社会の矛盾の深さを推し測れないことからくる正義の過剰としての横暴であり、勇気の過剰としての野蛮であるとしたら、見過ごすことはできません。

哲学者オルテガは、「左翼に属することは、右翼に属するのと同様、人が愚かにになるために選択しうる無限にある方法の一つである。つまり、両者は明らかに精神的半身不随の形態である。」と言いました。

都会に出て大学を卒業し、社畜になり、収入は安定したが、思い描いていた理想とかけ離れた現実に孤独を感じるとか居場所がないと感じる、「こんなはずじゃねえ感」も埋め合わせとして大いなるものを呼びたしたがる条件になります。大衆社会論によれば、都市化が進むにつれて不安や鬱屈を抱え、感情のフックに釣られやすい弱い状態となります。そうなると、排外主義や攻撃性をベースとした劣化した感情のフックが有効に機能します。大衆社会論は第二次世界大戦後に下火になりました。その理由は中間層が分厚くなったためです。しかし、現代はグローバル化流動性により、中間層が壊滅状態なってきています。

インターネットの登場も大きな影響を与えました。キャス・サンスティーン的に言えば、ネットは見たいものだけを見て、見たくないものは見ないことが可能なメディアです。そうすると、部族化(Tribe)が進みます。自分がコミュニケーションしたい仲間とだけ狭い世界に閉じこもり、クソなコミュニケーションで延々にグルグル回り続けます。朝から晩まで取り憑かれたように、在日ガー、中国ガー、韓国ガー、自民ガー、民進ガー、原発ガー、沖縄ガー、レイシストガー、LGBTガーなどと噴き上がっている浅ましい残念な人たちがたくさんいます。ほんと、お疲れ様です。

分断され孤立した連中は、彼らがこの世を捨てない限り、自分の周りに承認を供給する共同性がないので、ネットのクラスタのような疑似共同性や、崇高な精神共同体としての国家のような疑似共同性に身をゆだねて、孤独を埋め合わせるのです。そう、冷え切った夫婦の専業主婦にもウヨ豚サヨ豚が多い理由がお分かりだと思います。セックスしろよ。

グローバル化が進み人間も入れ替え可能な流動化した社会になると、うまく地位達成や承認を得られない不安や鬱屈を抱えた人間が、カルト宗教やカルト的なものに動員されて、そこで地位達成と承認を獲得しようとする営みにも陥りやすくなります。サリン事件を引き起こした高学歴な信者が多く入信したオウム真理教も、「こんなはずじゃねえ感」を生きるエリートだったと思います。自己啓発セミナーからカルト宗教へ80年代初頭から起こった動きです。

一人一人に承認が与えられ、各人が守るべき人、守るべき祖国をはっきり認識しているような社会は終わりを迎えているのではなかろうか。社会の近代化の過程で人々が、安心、安全、快適、便利を望む代わりに、人々は共同体から剥ぎ取られ、都市に集められ、流動する入れ替え可能な個人と化しました。その土壌をプラットフォームとして、大衆迎合的なポピュリズム全体主義の危険が無視できないレベルに高まっているのです。今まで安定化装置として機能してきた家族共同体や会社共同体というものが壊れてきています。別の安定化装置を開発しないまま、過酷な状況に剥き出しのまま投げ出されてしまった。

日本が“普通の国”になって国を守るのもいいが、もう既にこの日本には入れ替え可能なものしかないのなら、そんなものは守られても守られなくてもいいのではないか。三島由紀夫が抱いた日本に対する懸念は、入れ替え不可能なものは天皇陛下である、いや天皇陛下しかないかもしれないとした上で、この日本にはまだ入れ替え不可能なものがあると能天気に構えていようが、いずれ世界の流れに飲み込まれるのは自明であるということだった。入れ替え不可能なものが消えて、日本というものが無色透明になってしまったのなら、敢えてそれを忘れて、永久に入れ替え可能な記号と戯れてもいいと思っています。

現政権の日本再生のビジョンも現政権を批判する護憲派も沖縄の基地問題の論点も、じつに的外れである。今ここの現実からかけ離れた建前であるように見えてならないのです。「右」も「左」も、その対立の前提そのものをめちゃくちゃにするような変化が日本だけでなく世界で起こり始めている。ウヨ豚もサヨ豚も一人でオナニーしながら崖から転げ落ちるのは大いにけっこうである。だが、今我々に必要なのは、まずその現実を認識する勇気なのかもしれません。

「KAMIKAZE」と「KAROSHI」

ごきげんよう、ダーデンです。

過労死という日本特有の社会問題が取り上げられるようになったのは1980年代後半ぐらいからです。それまで、「突然死」という呼称しかなかったのが、先見性を持った医師たちにより、「過労死」と名づけられました。そして、この「過労死」は「KAROSHI」として世界に認知されるようになりました。この単語が英語辞書にも載っていることをご存じの方もいるでしょう。世界の先進国からすれば、極めて特殊な事態だったと言えます。それから22年以上経った今も過労死はなくなりません。

武士道や、「カミカゼ」という特攻隊などから、日本人は意志が異常に強いというイメージを持っている外国人もたくさんいます。だが、日本人がそうした強さを見せるのは、長い日本の歴史でごく僅かです。サムライ的に意志は強いが、押しは弱いのです。それはペリー来航の時に股を開いてしまった日本人を見ても分かります。なにやらデカいまっ黒な船でやってきたもち肌で天パのペリー提督がいきなり脅しつける強引さにビビったからだと思います。

日本人は、下手に出たり丁寧に頼んでもらちが明かない。脅すのが一番であると考えたのがペリー提督です。まあ、ペリー提督がやってくるまで、アメリカは二度も開国を求めています。一度目は民間商船に、二度目はビッドル提督に。ペリー提督は前者から教訓を学んでいたのでしょう。福沢諭吉は、押しが弱い、押されることに弱くすぐあきらめてしまう日本人の姿を卑屈だと嘆きました。

外交が低迷し、苦しくなった日本人が国家総動員全体主義を煽り、作り出された一つが、「カミカゼ」という特攻隊です。日本人は非常に過酷な状況にのみ現れる特殊なメンタリティを利用してきました。だからこそ、日本人は戦う必然性が失われると、途端に強いメンタリティが失われてしまう。サムライも日本人がもともと強かったら、武士道のようなものを叩き込んで戦う意味を明確にする必要はない。武士道のような指針がなければ、みんな戦わないで逃げてしまう弱さがあったのではなかろうか。

日本人は押しは弱いが、意志が弱いわけではないと思います。もし意志まで弱ければ日本はここまで発展しなかったはずです。意志が強いのに人には強く意見を言うことができないのは、要するに村八分を恐れているからです。とにかく自分の所属する集団から嫌われて追い出されるのを極端に嫌います。ディベートができない理由もここにあります。そもそも交渉が苦手なので、争いを避けようとして自分の身を犠牲にしてしまいます。切腹、特攻、玉砕、そして増え続ける自殺の根底にあるものが見えてきたはずです。

日本文化には自死を美徳とする美意識が存在しています。負けるのが確実な戦いで敵陣に突っ込んで死ぬというのは、戦力の弱さをよく現していると思います。無茶で悲惨な行動というのは、力を持たない人間がとれる唯一の方法です。玉砕も特攻も切腹も自殺も根底にあるメンタリティは同じです。押しが弱いからこそどうにもならない状況に陥りハラキリをするのです。

日本の自殺が特殊なのは物理的、金銭的に余裕であっても自殺してしまう人が多いことです。もちろんどこの国でも精神的に追い詰められて自殺する人はいますが、それは本当に生きていけない理由がほとんどです。「世間に顔向けできないわ!」という言葉があるように、日本人は個人として生きていけず、世間という集団の中で生きていくことしかできません。申し訳ないと言いながら自ら命を絶つ「申し訳ないスーサイド」の背景には、強力な「世間」があるわけです。

生きにくさってなに?

ごきげんよう、ダーデンです。

ところで、あなたは生きにくいと感じていますか?現代社会に生きる人々がどんなことに悩み何を求めて生きているのだろうか。俺は違和感を感じるポイントがあります。それは、他人に無関心でいながらボランティア体験には積極的、シラケてるけど絆を求める、今を楽しむより老後のことを考えて手堅く貯蓄に励む。これはマジョリティーから見れば完全に健全さを装った人々です。

まともな人間なら、一度や二度は生きることの意味、虚しさや人間の醜さ、愚かさを考えるであろう。特に現代社会に生きる日本の若者たちが、偏見もなく、悪気もなく、サッカーや野球にごく自然に熱狂し、たとえ日本が負けても「頑張ったと思う」などと言って大して気にしない。居酒屋やファミレスで安い酒を飲みながら朝までくだらないおしゃべりを楽しむ。ごく自然にウヨ豚化、サヨ豚化して、ごく自然にデモに参加する。何か事件が起こっても軽く受け止めて流し、ごく自然に他人との距離をとって、他人に深く介入せず、全身で渇望することもなく、絶望することもないのです。けれども、人生はそこそこ楽しい。

これってなんだか薄気味悪いと感じませんかね。なぜなら、「苦しむ」ことはとても大切な才能だと思っています。葛藤を抱えながら苦しむプロセスは、自己同一性(Identity)を確立します。誰もが通過するプロセスと考えられてきました。このプロセスをしくじった人間、あなたの周りにいませんかね。ただ何となく不快、ムカツク、カッタルイではなくて、不安や絶望を真に味わい苦しむ経験は不可欠です。

自己同一性の確立プロセスをしくじった人間も、一見すると、品行方正で真面目で繊細でありますが、思わぬところで非常識のきわみとも言える行動や言動を取ります。それをわずかにでも批判すると、不思議なほどの凶暴性を発揮する。自意識と感受性が強いあまりに、自分が侮辱され人格を否定されたと実感し、猛烈な情熱で自らを弁解します。重要なのは、それが内側に向かう攻撃性と外に向かう攻撃性の違いです。

客観的には恵まれた立場にいても生きにくさを抱えていたり、死にたいと思っている人々は数多く存在します。それは周囲に対する敵意と攻撃性を、直接的に表現できない人々です。憎しみを間接的に表現しているわけです。自殺は内側に向かう攻撃性の帰結です。自意識が死と競争して死に負ければ、自ら命を断ちます。この生きにくい世界を楽しむか、生きにくいこの世界に別れを告げるかはあなたの自由なのです。

プレミアムフライデー(笑)から読み取るニッポンの危うさ

ごきげんよう、ダーデンです。

月末の午後3時に終業し余暇を拡充させる「プレミアムフライデー」なるものを経済産業省と流通経済団体が打ち出しました。「マイナンバー」「ホワイトカラーエグゼンプション」「マニフェスト」「アジェンダ」など、どうしてこうもまあ、うやむやにしたいことは横文字にするのが好きなんでしょうね。日本人って。

 それはいいとして、この「プレミアムフライデー」なんですが、いくらなんでも日本の働く人たちをバカにしすぎではありませんかね。過労死や長時間労働など、日本の異常な労働環境が連日ニュースを賑わせています。労働者の不満が高まってきたところで、「ガス抜き」をさせながら姑息なやり方で、労働者に「月に一度の時短勤務を作ってやるから、黙って働いて利益をもっと上げろ奴隷ども!」と言っているように見えます。

 いやいや、もっと先にやらなければいけないことがありますよ。それは無駄で非効率な長時間労働の是正と有給休暇取得率100%を目指すことです。日本の有給取得率は世界26ヵ国中ワースト2位、残業時間はフランスの3倍です。日本人は勤勉で働き者だと言われますが、労働生産性OECD加盟国中の先進主要国7ヵ国の中でもっもと低いのです。一体何をしてるの?働いているフリなの?残業してる俺カッケェーなの?おまけにGDP国内総生産)は、日本人は長時間働いて有給も取らずに頑張って働いているのに、長期バカンスで地中海の美しいビーチでワインを飲んでいるフランス人より順位がかなり低いです。

 月に一度の時短勤務で個人消費を増やそうなどと、ほんとお受験勉強だけは得意の高学歴官僚様の考えることだなと思う次第であります。個人の生活より経済効果を優先したいわけですね。わかります。午後3時に退社した働く人々がその余暇でお金を使わなければこの制度も成り立ちません。さらに、「プレミアムフライデー」で短くなった労働時間分を他の日の残業や休日出勤に振り替えられてしまっては意味がありません。

 産業が成熟すれば、労働は決して尊いものではなくなります。我々が「仕事」と思っているのは、他から奪ってきたものを再配分しているにすぎません。我々は労働のあり方について考えを変えなければいけない時期にいると思います。どんどん日本は取り残されていく国になっています。もう一度鎖国して忘却の箱庭に閉じこもり、巨大なフィクションの繭の中で夢を微睡みながら死を待つのもいいでしょう。だがしかし、グローバル化という波に完全に飲み込まれるのは時間の問題です。生き残りたければ沈みゆく船の座席の取り合いは止めるべきではなかろうか。

 

ちょうど30歳になったのでブログを始めてみました。

ごきげんよう、ダーデンです。

先日、30歳になれました。なれないかなと思っていたが、なれるもんです。死んでるかなと思っていたが、生きてるもんです。

最近、「死」についてより深く考えるようになりました。死とは創造物です。死を体験した人間はいるだろう。だがそれは死ではなく、臨死です。臨死体験(Near Death Experience)つまり、限りなく死に近い体験なのです。死とは、肉体も精神も意思もすべて消えてなくなることです。釈迦がいう涅槃です。「死は完全なる消滅であり、完全なる安息」であると釈迦は説きました。

ちょっと前に、スピリチュアル・ブームが跋扈していました。今も一部はそうかもしれませんけどね。実はとても恐ろしいことです。輪廻転生などありません。魂があったとして、それが未来永劫存在し、現世で苦しめば苦しむほど徳というポイントを積んで、来世でそのポイントをパラダイス行きのチケットと交換できるなんていうカルマのロジックは、必ずしくじります。そう、日本ではオウム真理教が、イラクとシリアでニューイスラム過激派系ISILが台頭したように、実に反社会的なのです。

生きることに意味はありません。ただその時々に何かしら意味を見つけ生きているだけです。「人間は人生が悲惨であることを知ったので、幸福になるためにそれを考えないようにした」とパスカルが言ったように、人は、自分がいつか死ぬことを棚に上げて生きているのです。人類も、宇宙も滅びるのです。この不条理を、誤魔化さないでいただきたい。

隆慶一郎の著書「死ぬことと見つけたり」を読んで、俺は武士道を知った気になっていたのですが、生きることについてちょっとしたヒントを得ました。それは、「いかに死すべきか」を追求すると、「いかに生きるか」の行動様式が決まることです。ポアは、メキシコのシウダー・フアレス野垂れ死になんていいじゃないですか。さ、いつか死ぬときまで、何をして暇をつぶしていこうかな。祝30歳。