ダーデンの死んだ牛の肉ブログ

シドニー生まれの日本男児

ロバストネス4.0

ごきげんよう、ダーデンです。

もともと民主社会のオープンネスは存在しなかった。見えない「外部」が絶えず存在したのである。これは、学問の世界の中だけで議論されていたことだった。だが今や多くの人が情報通信の発達やグローバリゼーションによって「外部」を実感することになった。見えなかった「外部」が、見える「外部」になった。今まで見えなかった「外部」を果たして取り込もうとするだろうか。そもそも国家という概念が巨大なフィクションの繭に覆われていることに学問の世界だけでなく人々は気づき始めているのだ。

もはや国家という大きなボリュームの中に公正という正義によって皆が幸せになったほうがいいということにほとんどの人が関心がない。すべての人が関心がないと言っても過言ではない。余計なことを考えるな、余計なことを言うな、そうすれば幸せになれるというのはもともと全体主義の社会である。だが自由で民主主義的な社会においても余計なことに関心を持たないほうが幸せに生きられるということになりつつある。そうなれば、民主主義的な制度下でパブリックマインドを持った政治を選ぶことも育てることも当然できない。簡単に言えば利害損得だけで政治を選び、選ばれた政治もパブリックマインドを持っているなどと、誰も想像できないのである。

ルソーの「社会契約論」の中に書かれたpitié(憐れみの情と訳されることが多い)を引けば、自分としての自分はこれでいいが、皆はどうだろうかというのが民主制の条件である。フランス革命よりずいぶん前のルソーの主張がリアルに感じるようになった。なぜなら、人々は自分としての自分とは別に守りたいものがあるはずだという前提が崩れ始めているからだ。ルソーにとってはもはや自明ではなかった。極少人数の自分の仲間の範囲しか考えない状態があり得るとルソーは既に想定していたのであろう。そうなれば建前とは別に民主主義というのは中身がパーフェクトにクソになる。

ルソーはこのロジックで、ロックの代議制を批判した。システムが回っていたことが自明だったことが、今ここにきてフィクションだったと気づき始めたわけである。情報通信や移動の制限があった時代は、見ると都合の悪いもの、都合の良いものを見ないで済んだ。だが今は情報通信も発達し、移動も自由になり、それを背景にして資本移動の自由化、つまりグローバリゼーションが生じれば、嫌でも見えなかったものが見えるようになる。

見えない「外部」が可視化する。そこで民主主義社会の構成員は、可視化された「外部」の人たちもどんどん包摂して、自分たちの富をシェアして、リソースを分け与えようとするだろうか。今まで見えなかった「外部」は、オートマティカリーに排除されていた。だが「外部」が可視化して、オートマティカリーに排除が効かなくなったのであれば、人為的に排除しなければならい。その可視化した「外部」を故意に排除して自分たちの富を守るのだろうか。この究極の問いが根本にあることをまず理解しなければいけない。

宗教者や信者でもない限り、人類皆兄弟、人類全体を包摂しようなんて思わない。「外部」を見えない、見ないことを前提にしてシステムが回り、豊かな社会、豊かな国民、平和な社会があるとフィクションの繭の中で微睡む。しかし、境界線の外側、つまり繭の外はどうなのか。そんなの知らねえよ!なのだ。

メディアは操作されている、メディアは嘘を垂れ流しているといった主張は、長い間マルクス主義を機軸としたサヨクの主張だった。権力はマスメディアのイニシアティブを簒奪し洗脳しようとしている、デマゴギーを植え付けようとしている、といった主張は今や左よりも右の主張になった。マスメディアはゴミだからネットを使って戦いを挑むというのが、オルト・ライトやネオ反動主義者の基本的なスタンスである。結局のところ右も左も動員したもん勝ちなのだ。ゲッベルス的に言えばウソも百回言えば真実になる戦略。真実か嘘かは比較的どうでもいい。

中国ガー、在日ガー、LGBTガー、男ガー、女ガー、童貞ガー、黒人ガーなどの言語的ラベルだけで吹き上がる、体験も経験もないようなサヨ豚、ウヨ豚、クソフェミ、クソリべのような、言葉の受動機械がどんどん増えている。これは日本だけでなく世界を席巻しつつある。これはフロイト学派が分析してきたことだが、人々は自力で埋め合わせられない不安に直面すると、それを埋め合わせようとして自分が操縦可能な埋め合わせを使用する。

フランクフルト学派では全体主義が跋扈したのは没落ゆえに、自分のダメさ加減に直面した人々が、それを埋め合わせるために強く大きなものにすがってユダヤ人を迫害した。今日、政治的、社会的な問題について吹き上がっている連中の多くのマインドが、公共的で皆の幸せを考えているなどと信じているバカはおるまい。言語の受動機械としての自分たちが、ホメオスタティックに持続するかどうかの観点からだけ情報を取捨選択し、言葉の受動機械として動くPeople(愚民)の存在は重大な問題である。

ロールズの「正義論」から引けば、リベラリズムの本質は、「あなたが私でも耐えられるのか。耐えられなければ制度を変えろ」ということである。「あなたが私でも」という入れ替え範囲が限られているのは今や自明である。境界線の外側まで考えて入れ替え可能性なんて考えない。昔は"みんな"と言えばオートマティカリーに国民国家の枠組みの中しか考えることしかできなかったし、外側を見るチャンスはなかった。繰り返すようだが今はその「外部」が見える。あなたが私でも耐えられるのかの入れ替え可能性の範囲が広がることはない。

リベラルの理念というものは実はおためごかしなのである。リベラルが言う入れ替え可能性の範囲なんて所詮自分たちにとって都合のいい範囲に限られる。おためごかしの建前=リベラルなのだ。人々がそれに気づき本音で生き始める。人間はそもそもそんな生き物なのである。進化生物学、社会生物学の立場から言えば、我々人間は150人以上の人間を大事な仲間だと思うことは不可能なのだ。民主制の始まりまで遡れば、絶えず見えない「外部」に、見ようとしない「外部」に支えられてきた。その「外部」が可視化した今、急速な多様性の波が押し寄せる。

多様性という理念に人々が価値を見出す状態を保つためにも速度は重要なのである。受け皿なしで多様性を急速に推し進めても多様性によって発生した悪影響が多様性のメリットを上回ってしまう。移民・難民問題もそうだが、特に移民に関しては、アメリカの例で説明すれば、理念を持った真の保守主義者も速度を重視する。彼らは移民そのものを絶対に否定しない。なぜなら移民国家であり彼らの祖先も移民だからだ。だが1985年の移民法以降の移民流入の速度が速すぎて、アメリカはそれを消化しきれていない。アメリカがアメリカでなくなってしまえば、そもそも移民を受け入れるという古き良きアメリカ的なものの前提が崩れてしまう。

政治の舞台では速度を緩めようという主張はとても弱い。「外部」が可視化した今、速度を制御する知恵を我々が持てば消化できるのだろうか。どのみち多様性の波に飲み込まれるのは自明である。そのときに我々の社会がまともであり続けられるかを決めるのは速度である。我々人間の個体、共同体の適応限界を超える速度であれば必ずバックラッシュは起こる。ここで問題なのは、果たして速度を緩めることに合意できるだろうか。先行者の利得がある資本主義社会では、皆が速度を緩めれば、我先に速度を上げて富を得るものが必ず現れる。国家間にしても同じだ。行動経済学的に言えば、感情の働きを前提として認知の歪みは変えることはできない。よって速度の緩めるためのマクロの合意は調達できないと考える。

レイ・カーツワイルが提唱したシンギュラリティ(特異点)について言えば、人間の個体・共同体の適応限界が超えれば、むしろ人間的な判断を人間に委ねるのは無理がある。AIこそがマクロな社会に関わる人間的な判断を担う社会が見える。人間的な判断が必要なときには、人間から降りてもらうという皮肉がリアルに出てくる。そうなれば人間なのか人間もどきなのか区別がつかない存在が増える。従来の人間、遺伝子組み換えした人間、電脳化した人間、人間化したコンピュータ、人間化したロボット、人間化した動物、モンスター化した人間。1981年に公開されたリドリー・スコット監督による「ブレードランナー」では、人間もどきのほうが人間らしいという結論だった。だが2017年に公開された「ブレードランナー2049」では、人間もどき(レプリカント)が俺っちは人間もどきだったのか~!と悔しがるクソ結末映画だった。ポスト・トゥルースからポスト・ヒューマンへ。

南の島の風はとても心地が良い。

「保毛尾田保毛男」批判から見える“とんねるず的なもの”の終幕 ネタからベタへ

ごきげんよう、ダーデンです。

9月28日に放送されたフジテレビ系バラエティ番組『とんねるずのみなさんのおかげでした』の30周年を祝う特別番組で、番組放送初期のコントに登場した「保毛尾田保毛男」というキャラクターが復活し波紋を広げている。このキャラクターは、青髭で七三分けのヘアスタイル、フェミニンな扇子であおぎながら独特の喋り方をするという"ホモ的"なキャラクターで、ホモなんでしょ?とツッコまれると、あくまでも噂とツッコミ返す芸風が特徴である。このキャラクターが一部の性的マイノリティ、リベラル系言論人などから批判の声が上がり、BPO放送倫理・番組向上機構)に性的マイノリティの差別や偏見を助長するとして抗議文が送り付けられた。そして、フジテレビの宮内正喜新社長が謝罪するにまで至った。

イデオロギー抜きにして、あのキャラクターを見て不快に思う人もいるのは事実だ。不快や気持ち悪いと思うのも思想の自由である。俺もとんねるずも好きではないし、フジテレビも好きではない。だが、一芸人、一バラエティ番組のコントで登場したキャラクターに差別を助長する行為だと過剰に抗議してしまうのは、常軌を逸しているとしか思えない。これはもはやクレームというより、難癖ではなかろうか。彼が男性同性愛者に対して、芸の域を超えて差別発言や人権を損なうことをしたのなら抗議すべきであろう。

「保毛尾田保毛男」は"ホモ的"雰囲気のキャラクターなわけで、30過ぎても独身でいるとホモと疑われてしまうというような世間に対する風刺が込められている。笑いの中でセンシティブな部分を消化している技量のあるネタだと評価できるのではなかろうか。そのキャラクターに対して差別を助長するなどと抗議する連中が持っている差別意識の方が、よっぽど重大な問題である。今では、そのネタさえもタブーとされてしまった。そんな不寛容で息苦しい今の世の中で、あえてこのキャラクターを復活させたことに意味があるのではなかろうか。たとえば、なぜマツコデラックスやIKKOなどの女性性をパロディーした"オネエ"が許容され、なぜ「保毛尾田保毛男」がダメなのか。当事者が当事者をイジるのはよくて、当事者以外はダメなのか。その境界線が俺には理解できない。なぜならそれこそが差別意識だからなのだ。

昔は良かったと言うつもりはない。だが現代社会は底が抜けていると言ってもいい。ポストモダンでは社会がシステム化、つまり、コンビニ・ファミレス的(役割&マニュアル的)なものが人々の共通前提を席巻していくことになる。人々が余計なしがらみから解放されるために選んだ道である。茶の間に家族が集まって一つのテレビを見る。たとえば、そこにエログロ、現代では不適切と思われるシーンが放送されたとしても、子供は親に質問しながらコミュニケーションができた。あえてする戦略的コミュニケーションといってもいいだろう。これは何?どうして見ちゃいけないの?なんでいけないの?と。あえてノイズに触れることによって、ノイズ耐性ができた。だが近代化によって、各個人の部屋が与えられ、子供たちは一人で自分の部屋でテレビやスマートフォンなどの小さい画面を見ることになる。自意識が未成熟のままある種洗脳的に情報をベタに受け取って育つことになる。

 安心・安全・快適・便利なノイズレス環境で育つと、何が危険なのか、何が親しさなのか、何が痛みなのか、などのレッドゾーン、つまり距離感が分からない自意識過剰なヘタレな大人ができあがる。「河童の川流れ」ということわざを、文字通り受け取ると、「泳ぎが得意な河童も川の流れに押し流されてしまうんだなあ」という事実を受け取ることになる。これが「ベタ」である。だが、このことわざには、「その道に通じるプロと呼ばれるような人でも、時に思いがけない失敗するんだなあ」という河童という事実を越えた意味を読み取ることができる。これが「ネタ」である。

つまり、ネタをベタに、いやガチに受け取ってしまうヘタレな大人が現代社会には増えているのである。そういった連中が、あれは差別だー!人権侵害だー!危険だー!などと噴きあがり、ノイズに触れてコミュニケーションをとって距離感を学習する前にシャットアウトされる。有害と思われるメディアはダメ、箱ブランコもダメ、ジャングルジムも危ないからダメ、川、道路も危ないからガードレールをつけないとダメ、といった具合にだ。そして、むき出しのまま社会という荒野に放り出される。まともじゃなくても社会が回るようにする監視下や快不快に反応するだけの動物的な制御、つまり、人間がどんどん入れ替え可能な動物に近づくのである。

LGBT」というフラットなカテゴリーで性的マイノリティを一括りにして、今回の「保毛尾田保毛男」に対する抗議を性的マイノリティの総意と思っていただきたくない。マスコミもそういう報道はやめてもらいたい。さまざまな性的マイノリティが存在している。そのさまざまな性的マイノリティ各個人によって制度に対するそれぞれの反応、感情と正義のどちらに対してどれだけ反応するのかというのはまったく違う。考えはひとそれぞれである。だが、自分の首を自分で絞めるような行動は慎まなければいけない。性的マイノリティだけが特権的地位を得て、その他の思想や感情、表現は罪なんて社会にしてはいけない。

両性を平等に扱えとか単にフェアネスが重要だという立場の人ばかりが、ゲイやレズだということはありえない。感情と正しさは両方大事だけど、正しさばかりバカみたいに主張すればバックラッシュは必ず起こる。まさに全体主義の誤謬に陥るLGBTファシズムではないのかね。性愛の幸不幸が社会にあるのか、人にあるのかの分岐点はとても大切なのである。

性的マイノリティの性愛の幸不幸があたかもすべて社会の不正義、不平等、制度の不備、偏見に由来しているかのように勘違いしている連中がたくさんいる。性的マイノリティではなくても、性愛に不幸な人はいる。つまり、性愛の幸不幸が制度に依存する部分はごく一部に過ぎない。制度的に社会の眼差しが偏見に満ちているから、自分たちの性愛が実現できないと考えるのは完全に間違いである。

人間が性愛的に幸せになるというのは、社会の制度という単なるシステムの次元に還元できない感情の働きや、相手に対する同感能力に関係する。そういった能力を欠いたまま、感情を劣化させたままに社会の制度を変えても、どんなに正義と平等に満ちた社会であっても、人々は性愛的に幸せになることはできない。「俺は同性愛者は嫌いだけど、同性愛者が本当の意味で『差別』される社会はおかしいよね」といったように、実存の問題と社会がどうあるべきかという社会的構成の問題を切り離して考えることができる人間が、メディアや社会に必要なのだ。全員が「やっぱり『LGBT』すきだよ」みたいな人が増えないと性的マイノリティに対して寛容にならないというのは不可能なのである。

「常識」を支える共通前提と、それを支えてきた生活世界を、コンビニ・ファミレス的(役割&マニュアル的)なものによって空洞化させてしまった以上、そうした成育環境で育ったがゆえに共通前提によって愚昧な行動を制約されない人たちが増えるのは仕方がない。問題は、ギャーギャー声が目立つだけの少数者=ラウド・マイノリティに振り回される社会の側にある。彼らの言うことを真に受けて聞くメカニズムがあるから、浅ましい連中が跋扈することになる。

ラウド・マイノリティの言うことを聞いてあげることと、真に受けることは、まったくの別問題である。ラウド・マイノリティの言うことを直ちに真に受けることは、メディアの自殺行為に等しい。なぜなら、ラウド・マイノリティからの圧力と批判にびくびくすることは、反民主的・反平等的であるという構造において同じだからである。サイレント・マジョリティを、声なきがゆえに見殺しにするような振る舞いは、よほどのことがない限りは、回避しなければならない。

多様性や寛容を求めるラウド・マイノリティによって、この社会がどんどん不寛容で反多様性になっていく。同性愛者も異性愛者も性愛の相手を同性か異性で区別している。それは差別ではない。「差別」と「区別」を混同しているのだ。差別と騒ぐやつほど排他的で、規制と騒ぐやつほど下品で、平和と騒ぐやつほど好戦的である。その逆説に敏感でなくてはならない。そして、それを自覚するところから始めなければならない。息苦しい社会は誰も望んでいないはずだ。

「黄色い肌であることを嘆いたら、おまえ自身が黄色い肌を差別したことになる」

 

亡国のパラドックスをメタ化せよ

ごきげんよう、ダーデンです。

国民の多くが、現政権に期待していた果たすべき役割はなんだったのか。それには大まかに三つある。一つ目はデフレ脱却、二つ目は主体的な安全保障政策の追求、三つ目は健全なナショナリズムの定着である。実はこの三つが達成できれば、あべぴょんが叫ぶ戦後レジームからの脱却はかなり近づく。逆に言えば、この三つができなければ、何もできない。ふたを開けてみれば現政権は長期政権に突入している。そこで、この三つの役割が実際に達成できているのか。答えは、残念ながらどれ一つを取っても十分に達成されていない。

デフレ脱却に関して、国民の実質消費は減り続けている。インフレ率2%目標も達成されていない。主体的な安全保障政策はどうか。積極的な国際貢献と言っているが、これは事実上「アメリカの国際戦略に付き合います!」と宣言しているようなものだ。まさに対米ケツ舐め路線は崩していない。健全なナショナリズムはどうか。戦前を称賛するという動きがある一方で、戦後70年談話がいい例であるが、戦後の日本の在り方を肯定しようという動きも強いのだ。健全というよりバランスが取れていないヘタレナショナリズムである。

ここで、本来は経済学の概念として提唱されている経路依存性について考えてみよう。これは、過去の経緯、ないし偶然によって、いったん特定の方向性が出来上がると、その方向性を維持しつづけようとする傾向(自己強化メカニズム)が生じることである。方向性が維持される期間が長くなればなるほどに、自己強化メカニズムも強まる。戦後保守についてもこの理論を当てはめて説明できる。確かに、自民党の結党の際にナショナリズムを唱えている。これは一連の文章を見れば明らかである。

しかし、その一方で戦後日本のナショナリズムというのは親米が大前提であった。つまり親米であるというのは、戦後レジームの肯定なのだ。お気づきだとは思うが、ナショナリズムの否定も中にはらんでいる。それに加えて、アメリカがグローバリズムを推進すると言えば、付き合わなければいけない。そもそも、戦後日本の保守の在り方というものが矛盾しているのだよ。

冷戦の終結から、シナの台頭、アメリカの相対的な没落など、様々な要因によってこの矛盾の亀裂がだんだん拡がってきている。つまりこの状況下において依然として経路が存在している。それは戦後日本の経路である。この経路依存性のもたらす結果は、現状を肯定・維持するしかなくなる閉塞感、もっと望ましい方向性への転換ができなくなる非効率化なのだ。最初に申し上げた国民が期待する現政権が担わなければいけない役割、目標を達成できずにいるということは、経路依存性で説明がつくのである。

安定した政権運営をしようと思うなら、口先だけでナショナリズムを唱え、グローバリズムを推進し、対米ケツ舐め路線を突っ走る以外ないのである。これが本質的な問題点なのだ。この経路の強靭性を舐めてかかっていると、戦後レジームからの脱却は不可能である。つまり、経路から脱却できない限り絶対に変わることはない。ここでもう一つ、見苦しい国内政治をめぐる責任は、与党、野党、国民のどれに関しても等しいという原則がある。この点を押さえておかなければ、政権交代さえ起きれば政治が良くなると信じ込むハメに陥るのである。

この経路から脱却するための起爆剤となるのが、実は野党なのである。今の日本で健全なナショナリズム、主体的な安全保障政策、積極財政に基づく成長戦略、この三つの柱を持った政策体系を打ち出す野党が出現すれば脱却は近づく。だが、今のミンシン党を筆頭とした野党が、この三本柱を打ち出してくれる可能性は限りなくゼロに近い。

なぜなら、左翼、リベラルにも同じく経路依存性があるからなのだよ。愛国心はダメ、ナショナリズムもダメ、9条守れ、絶対平和主義、財政規律主義ないし財政均衡主義をほざいてきたお花畑連中に健全なナショナリズム、主体的な安全保障政策、積極財政による成長戦略など提唱できるわけがあるまい。

現政権最大の支持団体がミンシン党といってもジョークには聞こえない。笑えない。現政権の緩み、すぐケンカ腰になる答弁、言葉の乱れ、スキャンダル、右も左も互いに足を引っ張ってレベルを下げ合う状態になってしまっている。全体でこの腐った政治をメタ化してとらえることからはじめなければいけない。終わりは近い。

映画「La La Land」は想像以上に「人生」だった。※ネタバレあり

ごきげんよう、ダーデンです。

週末、パートナーと一緒にイチャコラしながらデミアン・チャゼル監督の映画「La La Land」を鑑賞してきた。アカデミー賞最多14ノミネートした作品である。しかしまあ、第89回アカデミー賞授賞式は見るに堪えなかった。アカデミー賞は多かれ少なかれ政治色があるのが特徴だが、今回は最初から最後までトランプ大統領叩き一色だった。ノミネート作品を取り違うなど、とんでもないミスも勃発。アカデミーの権威は没落し、完全に偽善リベラルの政治遊びの場になってしまったんだなあと思った次第である。視聴率も過去最低を記録した。

「茶番デミー賞ここに極まれり」

さて、本題の映画「La La Land」についてだが、この題名の意味「La La Land」について辞書を引いてみよう。

〈米俗〉〔麻薬や酒に酔ったときに味わう〕陶酔境、恍惚、我を忘れた境地◆La-La Landとも表記される。

〈米俗〉ハリウッド、ロサンゼルス◆ロサンゼルス全体を指すこともあるが、特にハリウッドについて使われる場合が多い。<引用元>

決して、場末のストリップ劇場の名前などではない。あるかもしれないけど。つまり、ミアとセブが夢を追い求めてやってくる街ロサンジェルスの愛称 L.A.が楽園としてイメージさせる意味も含んでいる。この映画はジャズ・ミュージカルとして、劇中に突然歌って踊るわけだが、なぜ映画「La La Land」はミュージカルなのか。

言語と歌は元々違っていて、「悲しい」という言語を聴いても悲しくならない。だが、悲しい歌を聴けば感情が揺さぶられて悲しくなる。つまり、感情を巻き込んで、ある種現実を忘れさせてしまうのが歌である。「ミュージカル=忘却」なのだよ。

はっきり言ってしまえば、映画「La La Land」は、テリー・ギリアム監督の「未来世紀ブラジル」、デイヴィッド・リンチ監督の「マルホランド・ドライブ」を彷彿とさせる夢落ち映画なのだ!もしかしたら、あり得たかもしれない「人生」を後悔し振り返る。もし、そこに行っていたら...もしあの時ああしていれば...今の人生の幸せを増幅させたいがためのスパイスとして、慙愧の念が現実と夢を行き来する。

これは、ここ30年間の今風映画によく使われるプロットである。映画「La La Land」は、古い映画に対する様々なオマージュがちりばめられている。1964年のフランス映画「シェルブールの雨傘」や1950年のアメリカ映画「サンセット大通り」などのたくさんの映画に言及している。これも映画「La La Land」の重要なポイントである。

セブはジャズ・ミュージシャンを目指してロサンジェルスにやってくるが、世の中もうジャズ音楽なんて古い。誰もアートとしての音楽なんて望んでいない。誰にでも受け入れられるただの娯楽としての音楽しか探されない。そこで、セブは娯楽バンドに誘われて身を立てていくことになる。そこのプロセスで描かれるのは、今まで青臭いファッションに身を包んでいたセブが、だんだん黒っぽい大人なファッションに変わっていく。ある種社会に適応することで、一人前の大人になっていくイメージが描かれる。

これは表現者に向けたメッセージではなかろうか。つまり、映画を作る側である。「活動写真」というのは半分アートだった。それが今や大量生産のただの娯楽に変わってしまった。誰も頭を使わずに観ることができる映画が好まれる。そういった映画の歴史をセブの人生の遍歴に当てはめて表現している。映画を作ることが賞を受賞するためだけの目的になってしまった。観客の心に爪痕を残して考えさせる映画はもう受け入れられないのだ。しかし、映画「La La Land」には二重性がある。観客の多くにはただの娯楽として「ミュージカル=忘却」を提供する一方で、「活動写真」としての映画を取り戻そうというデミアン・チャゼル監督の思いが込められているのだ。

今の時代、忘却している場合でもないけれど、考えても解決できない問題が世界中に溢れている。人々はどうやって生きていったらよいのか、もがき苦しんで迷っている。映画「La La Land」はそれを肯定してくれているのかもしれない。あなた自身の「La La Land」を見つけてみてはいかがだろうか。人生。

 “Here's to the fools who dream. (夢見るすべての愚か者に乾杯)"

北のまさお暗殺の報道について

ごきげんよう、ダーデンです。

2月13日、まさおが女スパイによって暗殺されたという報道が駆け巡った。本当はまさおは死んでいない替え玉説も出てきている。それはさておき、日本の報道に対する違和感は前々からあったが、いや、呆れているが、まさお暗殺の報道ぶりを見ても危機感を感じざるを得ない。なぜか彼に「氏」が付いている。いやいや、日本にとって彼は容疑者である。マスメディアも日本人もみんな忘れているかもしれないが、偽造パスポートで日本に不法入国した犯罪者ではないか。なんとその時の小泉政権外務大臣であった田中真紀子氏は、まんまと罠にかかったまさおをそのまま帰してしまったのだ。ああ、日本は国家ではないのだなと改めて強く感じた次第である。

「日本に来た時」という表現もおかしいわけで、まさおは日本が好きでネズミーランドに行って楽しんだ、「まさおロス」「俺たちのまさお」など恐ろしくなるくらいどうでもいい情報ばかり流される。彼は不法入国者なのだよ。どうしてその重大な問題が議論されなかったのだろうか。いや、今もされていない。第三国のマレーシアで発生した暗殺事件に日本が大騒ぎしているのに、日本の法律を犯して不法入国したことに関して一切の沈黙を保っている。つくづく日本は不思議な国だ。このことに関してどこか一部の救いのあるマスメディアが報道してほしいという僅かな希望は幻想で終わりそうだ。

報道番組のバラエティ・ショー化は今に始まったことではないが、テレビで芸人やクソコメンテーターが、重大な事件をおもしろおかしくしたり顔でまったく的外れな解説をする。つまり、その程度の解説を聴かせておけばいいというような国民を愚弄するマスメディアには非常に危機感を覚える。受け取る側もそれが普通だと思っていることが日本全体が劣化している何よりの証拠である。トランプ大統領叩きの異常さからも解るが、日本のマスメディアの報道姿勢にも、はっきり申して危機感しかない。

バランス・オブ・パワーの世界へ

ごきげんよう、ダーデンです。

20世紀における国家を超越した何らかの枠組みによる安定した世界秩序の形成という幻想が最終的に崩れつつある。これは、ヴェストファーレン体制以来の主権国家体制の復活ではなかろうか。結局のところ、国の枠というもは簡単に超えられないのだよ。第二次世界大戦後の自由主義諸国なるもののリーダーとして国境を越えた秩序を作ろうという姿勢を示してきたアメリカがこれを受け入れたのだ。

アメリカは我々の予想以上に衰退、没落していたのだ。トランプ新政権誕生について、反グローバリズムの潮流やポピュリズムの台頭であるといった捉え方がなされている。良い悪いの価値判断を抜きにして考えれば、トランプ新政権の性格と開発独裁の性格が似ているのではないだろうか。開発独裁というのは、途上国でよく見られる現象である。国が発展して繁栄するということを正当性のベースにする代わりに、政府に対して権威主義的なリーダーシップを持たせることである。つまり、既存のエスタブリッシュメントをぶっ壊すということなのだ。反対勢力に対しては強硬に対応する。

トランプ大統領は大統領選に出馬する前に、2014年のフォックス・ニュースのインタビューでこう答えた。「アメリカを救う道は何か。それは、経済が壊滅的に悪くなり、国中が地獄と化すならば、暴動を起こしてでも実力行使をしてでも、もう一度国が元に戻ろうとするはずだ。その時にアメリカは救われるのだ。」

トランプ新政権の首席補佐官であるスティーブン・バノン氏はこう答えた。「私はレーニン主義者だ。レーニンというのは、これまでの国の在り方をぶち壊したろ?私はこれをやりたいのだ。既存のエスタブリッシュメントをぶち壊したい。」

トランプ新政権は完全に開発独裁とまでは言わないが、持てる1%、つまり既存のエスタブリッシュメントが外国とつるんでアメリカを悪くしたと徹底批判している。アメリカ国内の労働者たちがさんざん割を食い大変な思いをしてきたのだ。それをトランプ新政権は変えようとしている。まともな反トランプ派は、同族支配、政界と経済界が癒着することによる利権構造の悪化、政治家が私服を肥やす危険性、国内の情報統制、国民の自由と権利の制限、アメリカを偉大にすると言いつつ国民が貧困化する危険性を叫んでいる。これは、権威主義型政権の弊害と一致するのだ。つまり、なぜトランプ新政権が支持されたのかだ。これは、実はアメリカは内実途上国化していることを表しているのではなかろうか。

権威主義政権がアピールするというのは国民がかなり疲弊しているときである。実際に、FRBが2013年からアメリカ国民の経済状態について調査したデータによるとアメリカ人の半数が400ドル(1ドル115円のレート計算で46,000円)の現金が必要になったときに、用意できない、あるいは借金するしかないと答えた人の割合が47%いることが明らかになった。ニューヨークの個人資産運用サイトのバークレイトが2014年に行った調査では、1000ドルかかる病院の救急医療が貯金で負担できる人の割合が38%、500ドルかかる車の修理が貯金で負担できる人の割合が同じく38%であった。ジョージワシントン大学オックスフォード大学プリンストン大学の合同調査によると突然の出費に対応するために1ヵ月間で2000ドル用意できるか調査したことろ、無理と答えた人の割合が25%、質屋に物を売るか、給与の前借をするしかないと答えた人の割合が19%、占めて44%である。

これらが意味するのはアメリカ国民の半数近くは、実質その日暮らしであるということだ。何か大きな出費があった場合に破産しかねない状況なのである。アメリカというのは、東西両沿岸部の都市部は繫栄しているが、そこに挟まれた地域、つまり、本当のアメリカがトランプ大統領を支持したのだ。この本当のアメリカが予想以上に疲弊していたのである。半ば途上国化していたと言っても過言ではない。だからこそ強いリーダーシップを持ったこれまでの既存のエスタブリッシュメントをぶち壊してくれるであろうトランプ大統領が誕生したのである。

しかし、日本は第二次世界大戦後ずっとアメリカに従属してきたのは事実だ。もはや日本はアメリカという「途上国」に従属してしまっている。アメリカと価値観を共有していれば、「win‐win」の関係になって日米同盟を基軸にしてアメリカについていけば大丈夫などとほざく能天気な時代は終わったのだよ。アメリカの内実が途上国化している状況を強力なリーダーシップを持った権威主義的な政権によってどうにか収拾しなければいけないところまできているとすれば、それは中国やロシアと内情は似ている。日本はかろうじて先進国としての体面を保っているとしても(日本も内実は衰退の一途をたどっているが)、米中露が途上国化すれば日本も引きずり込まれる。日本はジャパン・ファーストに本気で舵を切らなければ共倒れになることは間違いないのだ。

トランプ新政権発足!戦争は既に始まっている

ごきげんよう、ダーデンです。

トランプ政権が正式に発足した。ダウ工業株30種平均が初めて2万ドルの大台に乗った。TPP永久離脱、メキシコとの国境に壁を造る、テロの恐れのある地域からの移民受け入れを原則禁止など、就任した後に100日間で行う公約を着々と進めている。正に有言実行の大統領である。メディアは相変わらずトランプ大統領の重要な発言を無視している。お得意の報道しない自由だ(笑)ところでみなさんはトランプ大統領就任式の演説を視聴しただろうか。メディアの報道を見ていると極めて重要な発言を無視していることが分かる。

大統領就任式はトランプ大統領就任を祝う式典だけではない。アメリカの建国以来の新しい大統領の誕生を祝うことであり、それは、前大統領の治政から新大統領の治政へと移る区切りの儀式でもあるのだ。トランプ大統領に投票しなかった反トランプ派も実は就任式に出席しているのだ。だが、日本のメディアもアメリカのメディアもトランプ支持者だけが就任式に集まったかのように報道している。これはパーフェクトに間違いである。就任式に集まった人々はアメリカ建国以来の政治の原点を確かめにきた人々なのである。

当たり前のことだが、オバマ前政権からトランプ新政権に移るということは、両者がただホワイトハウスで握手しただけでは移らないのだ。就任式というアメリカ建国以来の伝統的な儀式によってアメリカ国民も大統領に就任した者も腑に落とすことができるのである。就任式の議事堂前に集まった人々もテレビで就任式のライブを見た人も、アメリカの大統領の交代ということを身体で感じることができる儀式が就任式なのだ。この儀式がなければ、アメリカの政権交代というものはスムーズには行かないのである。

民主党の議員が70人以上ボイコットしたと言われているが、はっきり申し上げれば議員の資格はない。自分たちの気に入らない人間が大統領になるからといって、アメリカ政治の原点である儀式をボイコットするというのは、自分自身がアメリカ政治の伝統を受け継いでいないということを表しているといっても過言ではない。これこそ、メディアが報じなければいけないはずだ。だが、メディアは、「民主党の議員たちが70人以上ボイコットしたのは如何にトランプ大統領が酷い大統領であるか」といった論調で報じるのだ。偏向報道ここに極まれり。お笑いだ。

オバマ前大統領の就任式とトランプ大統領の就任式に集まった群衆の数を比較した写真のフェイク・ニュースも話題になった。これもトランプ大統領就任式のライブを視聴していればすぐに問題点が分かるはずである。つまり、人々があまり集まっていない就任式が始まる数時間前の写真をわざわざ示して、トランプ大統領の就任式の時はオバマ前大統領の就任式の時よりも人々が集まらなかったというフェイク・ニュースを報道したのだ。就任式のライブを視聴していればほぼ人々で埋め尽くされていたのは分かるはずである。

メディアの歪曲報道は然るべき問題である。これはトランプ大統領に対する魔女狩り報道ではなかろうか。ありもしないあらゆる問題を取り上げてトランプ大統領を叩きのめそうと躍起なのだ。トランプ大統領を茶化す割には、シナのキンペーはスルーする(笑)お分かりであろう、アメリカのメディアも日本のメディアも統一されてた意思によって動いているのだ。トランプ大統領おろしは既に始まっているのだよ。これは第二のウォーターゲート事件である。WG事件もメディアのねつ造報道から事件が始まった。最終的にはニクソン大統領を引きずりおろすことに成功した。今回も同じことが行われている。トランプ大統領がメディアを総攻撃する理由もお分かりであろう。戦争は既に始まっているのだよ。

トランプ大統領は演説で、アメリカ・ファーストを強調した。つまり、アメリカ第一主義を掲げたのだ。他国に対して友好関係を求めるが、すべての国は自国の利益を優先する権利がある。つまり、すべての国が自国ファーストで国益を守ることを前提とした上で、アメリカ・ファーストを貫くということなのだ。しかし、アメリカのやり方を世界には押し付けないと言っているのだ。即ちどの国も自国のやり方を他国に押し付けるなというように捉えて間違いではない。それでこそ世界は良くなるはずだ。これはその通りである。今までアメリカ的価値を他国に押し付けてきたアメリカは終わりを迎える。

 メディアも日本も自立なくしてジャパン・ファーストはありえない。ジャパン・ファーストというのは、決して日本が正しいことでもない。日本が世界で一番だということでもない。日本は日本のことに責任を持つということなのだ。それが、アメリカ・ファーストに通じるジャパン・ファーストの意味である。孤立主義でも保護主義でもないのだ。世界の国がすべて自国ファーストになれば、利害の対立は起こっても、ディール(取引)が可能になる。日本は日本国民の国益というものに責任を持つことで、初めてトランプ大統領と交渉ができるのだ。日本もやっと自分の足で立つことができるチャンスがやってきたのである。

AMERICA FIRST!JAPAN FIRST!